(1)尊王攘夷派の台頭
勤王志士たちの京都集結
文久2年(1862)1月、公武合体を不服とする水戸浪士らによる老中安藤信正の襲撃事件、「坂下門外の変」が起きる。
2月には、江戸で清河八郎を盟主として、尊皇攘夷の「虎尾の会」が結成され
、横浜外人居留地を焼き討ちし倒幕の契機とする計画を立てたが、幕府に知られ未遂に終わる。
4月になり薩摩藩で藩主以上の実権を持つ「国父」となった島津久光が兵を率いて上京、勤王志士たちが再び動き出す契機となる。
清河は京都や九州へ潜行、仙台藩などと東西呼応して新たに京都挙兵計画を立てた。 これらの動きにより久光の意図とは無関係に、諸国の志士たちは続々と京に集まった。
しかし、この結集は4月23日の伏見寺田屋事件で瓦解する。
攘夷の挙兵と解釈され、鎮撫のために派遣された薩摩藩士との同士討ちで、薩摩中心の志士たちの活動は崩れてしまうのである。
長州と土佐の台頭
土佐では、先の4月8日、郷士たちの集まりである土佐勤王党が、公武合体を唱える藩の重役、吉田東洋を惨殺していた
が、郷士中心の組織のため藩内工作に手間取り、若い藩主山内豊範を擁し、首領武市瑞山が京に出たのは8月25日になる。
一方、安政の大獄で吉田松陰を殺された松下村塾の若い志士たちには、幕府はもちろん薩摩に対する反発もあった。7月6日、長州藩は京都で藩主や重役を集めた大会議を開き、藩の方針を尊皇攘夷と決定した。
久坂玄端を首領とする長州尊皇攘夷激派は、藩の後ろ盾を得て、諸国の志士たちをも取り込んだ。
一方、江戸から東海道を下った島津久光の一行は生麦事件を起こし、攘夷問題は幕府と国内に深刻な事態をもたらしていた。
(2)天誅の横行
京都では、土佐勤王党と長州尊皇攘夷激派の2大勢力が並立していた。
土佐と長州を中心とする2大勢力は、「天誅」を実行していた。
「天誅」とは、悪く云えば
京都で倒幕を画したテロ集団であり、恐れをなした朝廷をも反幕府的攘夷の方向に切り替えた。そして、倒幕を目指したのである。
「天誅」とは、いわば人殺しで、悪く云えばテロ集団である。
7月20日、天誅第1号は、意外にも薩摩の田中新兵衛による島田左近惨殺だった。
島津久光に押さえられた薩摩尊攘派の名誉回復となったこの事件を機に「人斬り新兵衛」と評される。
閏8月18日、新兵衛は、土佐勤王党の武市瑞山と義兄弟のちぎりを結ぶ。
その2日後、土佐勤王党も尊攘派の嫌われ者、本間精一郎を斬ったのを皮切りに、
さらに2日後、岡田以蔵が宇郷重国を斬り、「人斬り以蔵」と呼ばれるようになる。
武市瑞山の日記によると、「天誅」実行者の数は、土佐から12名、長州10名、薩摩2名であった。
また、同時に武市らは、三条実美と姉小路公知の2名の公卿を勅使として江戸へ下向する準備をしていた。
「天誅」を怖れた公卿達は、勅使による幕府への「攘夷実行」要求を阻止できなかった。
困った幕府が政権を放棄すればよいし、朝廷に反抗すれば倒幕の大義名分が成立するのである。
そして幕府は政権を取り上げるという議論になるのを怖れて、攘夷実行を約束した。
幕府は江戸で浪士を募集し、京都の浪士を制圧するため、江戸で浪士を募集、近藤勇等も参加した。
尊皇攘夷党「虎尾の会」の清河八郎は、江戸での倒幕計画が未遂に、京都挙兵計画も寺田屋事件で挫折したが、幕府に江戸で浪士を募集し、京都の浪士を制圧する案を献策した。
幕府はこの案を採用し、この募集に長女タマが生まれたばかりの近藤勇(28才)は、土方、沖田らを連れて参加
、文久3年2月、京に向け出発するのである。
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