(1)黒船来航
黒船来航で幕府体制は大きく揺るぎ始め、「幕末」が始まった。
嘉永6年(1853)6月3日、
浦賀に黒船が来た。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる4隻の蒸気船である。これがいわゆる「幕末」の幕開けとなる。この重大事件に対し、12代将軍家慶は病床にあり、前水戸藩主徳川斉昭に意見を求めるよう命じ、6月22日にはこの世を去った。
当時の千石船の20倍といわれる黒船の出現は、現代に例えると「空一面を覆うような宇宙船に乗った異星人が地球に交流を求めてきた」位の衝撃ではないだろうか。今までの価値観を根底から覆すような状況だったらしい。
水戸の徳川斉昭の登用は大きな意味を持つ。それまで御三家を含めて諸藩には、幕府への政治的関わりは認められていなかった。これをきっかけに諸藩が幕府の体制に意見を持ち始め、幕府を佐(たす)ける守旧派の「佐幕派」と、革新の「倒幕派」に分かれることになる。
この頃、近藤、土方、沖田らは剣術の修行をしていた。
中流農家の三男である近藤勇は19才、天然理心流三代目近藤周介の養子となり島崎勝太と名乗り、江戸市谷甲良屋敷の道場「試衛館」で剣術の鍛錬をしていた。沖田惣次郎(総司)は内弟子として入門、この年には12才ながら白河藩の剣術指南を破るという天才剣士の片鱗を見せ始めたという逸話も伝えられている。富農の四男の土方歳三(18才)も正式入門ではないが門人となり、家伝薬「石田散薬」の行商をしながら、件の腕を磨いていた。
井伊直弼の独裁で、水戸藩をはじめとする討幕派は弾圧される。
黒船の威圧で、幕府は開国を余儀なくされ和親条約を結び、その後も日米修好通商条約を結ぼうとするのだが、条約勅許論が持ち上がる。将軍は征夷大将軍に任命されているだけで、重要問題は天皇の勅許を必要とするというものである。朝廷は「尊皇攘夷論」をもとに条約の勅許を拒否するが、幕府は強引な政策で知られる大老井伊直弼により勅許を得ずして調印をする。
13代将軍家定の後継者争いでも、家茂を推す南紀派の井伊は、徳川斉昭の7男である一橋慶喜を推す一橋派を弾圧、攘夷論者の斉昭も謹慎処分にする。天皇からの幕府政治を否定する密勅を受け取った水戸藩を弾劾、安政の大獄と呼ばれる討幕派の弾圧が続いた。これにより、討幕派の動きはしばらくの間、沈静化するのである。
(2)尊皇攘夷VS公武合体
井伊直弼暗殺で幕府の権威失墜。
万延元年(1860)1月、幕府の軍艦咸臨丸が遣米使節団の勝海舟や福沢諭吉らを乗せ、日本人初の自力航海でアメリカに向かい5月に帰国した。
しかし、この間の3月3日、安政の大獄の反動で桜田門外の変が起きた。水戸藩を脱藩した17名の浪士と1名の薩摩藩士による井伊直弼暗殺である。大老を暗殺されるという、幕府の権威に影を見せ始めた事件である。
この年3月、近藤勇はツネと結婚、土方も8月に「武術英名録」に掲載されるほどに剣術を磨いていた。
幕府は権勢を保つため、公武合体政策を進める。
幕府は混乱を避けるため、反井伊派の久世を老中に復帰させ、老中安藤信正と老中久世広周による政権を確立するまで井伊の死を隠した。安藤・久世政権は、「久世は名で安藤は実」といういわば連立政権で、公武合体政策を目指した。皇女和宮の降嫁もそのひとつである。和宮は婚約していたが、その相手は後の戊辰戦争で東征大総督となる有栖川宮熾仁親王である。余談だが、明治になって流山へも来流したことがあるので、流山は
、双方にとって意味のある要所だったのだろう。
幕府は、朝廷側の条件として十年以内の攘夷実行の約束をしたため、この政略結婚は実現へ向かう。
この翌年、近藤勇は天然理心流四代目を襲名する。
文久元年(1861)、アメリカでは南北戦争が始まっていた。勇は正式に近藤姓を名乗り、試衛館の主として、8月には、天然理心流四代目襲名披露の野試合が行われた。井上源三郎や山南敬助も門下生となっており、客分には永倉新八らもいた。
公武合体から尊皇攘夷、倒幕運動への兆し。
幕府は、長州の公武合体による開国の朝廷工作
に期待していたが、久坂玄端により条約を破棄し攘夷を行う藩論へと変わっていく。土佐では、武市端山の土佐勤王党が公武合体を目指す藩の重臣を殺害する。水戸藩士は、
公武合体を不服とし、老中安藤を襲撃する坂下門外の変を起こす。
長州、土佐、薩摩、肥前など西南諸国をはじめ、幕府に不満を抱く者たちを中心に、尊皇攘夷の波は、藩の枠を越え全国的に結びついた運動に拡がりつつあった。
時代は政局の舞台を江戸から京都に移しつつあり、確実に「幕末」へと動いていった。
|